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『ひろしま』は、日教組プロが1953年製作、関川秀雄監督による日本映画である。1955年に第5回ベルリン国際映画祭長編映画賞を受賞した〔ベルリン国際映画祭 〕。 == 概要 == 長田新が編纂した文集『原爆の子〜広島の少年少女のうったえ』(岩波書店、1951年)を八木保太郎が脚色した。同じ原作を元にした作品として新藤兼人監督・脚本の『原爆の子』があり、当初、日教組と新藤の協力で映画制作が追求されたが、結局両者は決裂し別々に映画を制作した。 日教組に参加する広島県教職員組合と広島市民の全面的協力の下で制作され、(原爆を直接経験した者も少なくない)広島市の中学・高校生、教職員、一般市民等約8万8500人が手弁当のエキストラとして参加し、逃げまどう被爆者の群集シーンに迫力を醸し出している。また、広島市、日本労働組合総評議会(総評)とその県組織の広島県労働組合会議(広島県労会議)、原爆の子友の会、原爆被害者の会の他に、地元企業である広島電鉄、藤田組(現・フジタ)も協力した。映画に必要な戦時中の服装や防毒マスク、鉄カブト等は、広島県下の各市町村の住民から約4000点が寄せられた。原爆投下前後の広島の再現のために現地での撮影場所は、広島市内外で24ヶ所、シークエンスは168〔広島県原爆被爆教師の会編著『未来を語りつづけて』(1969年8月、労働旬報社刊)281ページ 〕に達した。 監督の関川秀雄は映画製作の7年前に広島に原爆が投下された直後の地獄絵図の映像化に勢力を注ぎ、百数カットに及ぶ撮影を費やして、克明に阿鼻叫喚の原爆被災現場における救援所や太田川の惨状などの修羅場を再現した。そして被爆者たちのその後の苦しみを描いた。 スタッフには、安恵重遠のような録音のベテランがおり、その後、独立プロ、教育・記録映画を支える小松浩、河野秋和が撮影や編集を担当。美術を後に「砂の女」を担当する平川透徹、セットデザインを怪獣映画の造形で知られるようになる高山良策が担当している。関川監督をその後脚本家として活躍する小林太平が補佐し、信州大学文理学部を卒業したばかりの熊井啓が助監督のひとりとしてついた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ひろしま (映画)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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